宇宙人の存在を信じるか?
俺は信じている。いや、というより、見たことがある。俺は彼らの存在を知っている。
宇宙人なんて名称で呼ばれてはいるが、それは未知の存在に対して人がつけた便宜上の名前。
彼らの本当の名前は『観測者』この地球を影で支配する者達なのだ。
この地球は全て彼らによる創造物である。
そして俺は、その観測者が地球に遣わせた『使者』。
人間の器を持ちながら、彼らと交信することができる。そうして俺はこの世界の動向を観察し、彼らの声を聞き、彼らの意思を伝える役割を持っている。
何故、俺がそんなことを知っているのか、と?
それは、宣託を受けたからだ。
ジャンヌ・ダルクが神の声を聞いたように、俺も彼らの声を聞いたのだ。
そして、その時から俺は、観測者の遣い―闇の隠者として、この箱庭の世界を生きている。
――観測者が俺に与えた名は、『枝藤菖一』。
この世界は、真の姿が見えている俺にとっては少々生き辛い。
何も知らない無邪気な人間達には、俺が『異常』に見えるようだ。
『奇人』『変人』『厨二病』 そう渾名されて、誰も近寄ってこない。
だが、それが賢明というものだ。この世界の真実は、貴様らにとっては残酷すぎる。
一人でいることは嫌いではないし、それは別にかまわない。
けれども、この世界で人間として生きていく限り、人と馴れ合うことは不可欠なのだ。
良き観測者との伝達人であるには、この世界に馴染まなければならない。
勉強をしなければならないのも、学校に行かなければならないのも全てはその為。
『普通』ではない俺が、『普通』に生きることを強いられる世界――。
「おぉい!早くしろよ!」
突然声をかけられて、俺は我に返った。
特殊な俺は、たびたび高次元へと意識を向けてしまう事がある。
・・・ここは教室か。
学校という、人間として生きる上での『義務教育』を受ける場。
前の席の坊主頭の男子が、後ろ手でバサバサとプリントの束を振っている。
「早く!回して!」
「・・・」
俺は男子からプリントを受け取り、一枚取って後ろに回した。
そして、何気なくプリントの文字に目を落とす。
『進路希望アンケート』か。
まだ新学期初日だというのに、気が早い事だ。
俺はこの春、中学3年生になった。
中3といえば、人生における最初の大きな分岐点ともいえる。
義務教育が終わり、その先の進路を自分で選ばなければならない。そこで、ほとんど将来の方向性が決まってしまうと言っても過言ではないのかもしれない。
プリントの選択肢には、『進学』『就職』『未定』とある。
こんなたった3つの選択肢しか与えられないなんて、やはりこの世界は狭い。
俺は一笑すると、迷うことなく選択肢の一番下に『高次元への回帰』と加えた。
その下の自由記入スペースに、俺の展望を書き綴る。
――この地球を真に支配する『観測者』は、この星の行く末を常に案じている。そして、俺に教えているのだ。やがて、『ラグナロク』が来るのだと。
ラグナロクとは、世界の終わりの日。この星を狙う観測者と敵対関係にある謎の組織が、この星を終焉へと導く日だ。その時に俺の真の力は目覚め、この星を救う。そして、星を救った暁に俺は人を超越した存在へと転化し、観測者達の元へと還るのだ――
走り出したペンは止まらない。前の席の坊主の男が、俺のプリントをじっと見ていることにも迂闊ながら気づかなかった。
「すげぇなぁ。よくそんなの思いつくよなぁ」
男はまじまじとプリントを眺めつつ云った。
「これは真実だ」
「・・・つか、そのまま出すの?」
「当然だ」
稀にこうして、俺の『異常』に興味を持って近づいてくる者がいる。だが奴らの興味とは所詮一時のもので、受け入れがたい真理を理解しきれずに去っていくのが常だ。そうした上で俺に異常者の烙印を押す。
だが、この坊主―確か名は岩本―は違っていた。奴は目を輝かせ、
「なぁなぁ、俺にも何か書いてよ!かっこいいやつ!」
「・・・は?」
俺は思わず聞き返した。何故俺がそんなことをしなければならないのだ?
「な!普通に書くのってつまんねーじゃん?アンケートなんてこれから何回もやるだろうし。頼むよ!」
岩本は有無を言わさぬ調子で自分のプリントを俺に寄越した。
岩本は何か勘違いをしている。俺は決して創作を書いている訳ではない。観測者の声を文字にしているだけであって・・・
と岩本の後頭部を睨んでいたその時、突然頭の中に展望が開けた。
これは声だ。観測者達が俺に囁きかけている・・・。
「フッ・・・」
俺は声の導くままにペンを走らせ、書き終わったプリントを岩本に渡した。
後日、俺と岩本は担任に呼び出され、アンケートは書き直しさせられる羽目となった。
それから岩本、洗礼名ガンリキは俺の闇に魅せられてしまったらしく、よく行動を共にするようになった。
春は過ぎ、季節は夏に差し掛かる。
近頃の俺には、密かに気にかかることがあった。
それは、窓際の自分の席から見える中庭の花壇だ。
花壇とはいっても、そこに花などない。あるのは一面に生い茂る雑草ばかりで、かろうじて隙間から覗く朽ちかけた煉瓦の囲いがさながら廃墟の雰囲気をかもし出している。3階の教室の窓からでは、その煉瓦の囲いもほとんど見えない為に、花壇があることすら知らないものもいるかもしれない。
花壇係という世話人が配置されているにも関わらず、誰にも手入れされず、気に留められることすらない、忘れられた花園。
その退廃的な姿に心惹かれ、俺は1年の時から、授業中など度々そこを眺めていたのだった。
そしてある日。雑草に覆われ廃墟じみていたそこが、妙に小綺麗になっているのに気づいた。
日を追うごとに連れ、そこは少しずつではあるが、着実に整えられていっていた。そして、ついには小さな花が植えられるまでになっている。
入学してから今まで、あの花壇に花が植わっている所は見たことがなかった。学校側でもあの花壇には特に関心がないようで、花壇係という名ばかりの役職を持ちながら放置の構えなのである。
それが急に、どういう訳か手入れをする気にでもなったのだろうか。
だが、このクラスの花壇係である渡辺が機能している様子はない。
一体誰が、あの花を・・・?
その答えを知ったのは、それから数日経った後の放課後だった。
俺は美術の課題の絵を、不本意ながら描き直しさせられていた。声の赴くままに筆を走らせた渾身の作品だったが、暗愚な教師には理解できなかったようだ。
その時ふと窓の外を見ると、花壇の脇に誰かがしゃがみ込んでいるのが見えた。
俺は思わず、立ち上がってその姿を確かめていた。・・・女だ。制服でそれはわかるが、誰なのかはここからではわからない。顔が見えなくても、3年の女子ならば見当がつきそうな所なのだが。
「どしたん?」
そんな俺に釣られるようにして、教室で暇を持て余していたガンリキと、それに付き合っていた美貴が寄って来た。
「んー?お?あんな花壇あったっけ?」
「そういやここんとこ綺麗になってるよね。あの子、1年生かな?あの子が世話してんのかしらね」
1年か・・・。1年生だけは、花壇の世話をする方針にでも変わったのだろうか。
それからしばらく、俺はじっとその様子を見ていた。
少女は一人忙しそうに花壇の周りを行ったり来たりして、水をやったり何か作業をしたりしていた。
そして、下校のチャイムが鳴るとともに、少女はいなくなった。
その日から俺は、授業中以外も花壇を気にするようになった。今まで気づかなかったが、朝、昼休み、放課後と休み時間の毎に少女は花壇に来ていた。
雨の日も、黄色い傘の花がそこにはあった。
日に日に花が増えていき、にぎやかになる花壇。けれど、そこに来るのは何日経っても、彼女一人だけだった。
「枝藤ちゃーん、あの子が気になるのかな?」
ガンリキが下劣な笑いを浮かべて近づいてきた。
「いや・・・ただ、一人で大変そうだと思って」
「あぁ、まぁ何気に全クラス分スペースあるし広いよなぁ。けどなんだってまた手入れなんてしてんのかね」
「花が・・・好きなんじゃないか」
するとガンリキは、何を思ったか突然窓の外に身を乗り出し、
「おーーーーーい!!!!」
中庭に向かって大声で叫んだ。
「!!!!」
俺が慌てて下を見ると、少女はこちらに気づいて、ちらりと顔を上げていた。
「なーにやってんのーー」
ガンリキは手を振りながらまた声を張り上げた。俺は慌ててガンリキを引っ込めた。
少女は戸惑っているのか、すっかり手を止めてこちらを見上げている。俺は精一杯息を吸い込み、
「わ、悪い!何でもない!!」
それだけ叫ぶと窓から離れた。・・・久々に声を張ったせいか、喉が痺れている。
「なぁんでだよ?気になるんしょ?なんなら下行っちゃう?んん?」
「い、行くかバカ!」
「えぇーって、ヤベッそいや今日野球部の助っ人いかにゃならんのだった!」
ガンリキは俺が咎める隙も与えず、慌しく教室を飛び出していった。
散々騒いでおいて無責任な奴だ。
仕方なく、俺も帰ることにした。
帰ろうとはしたものの、さっきの少女の事がどうにも気にかかった。
下校のチャイムはまだ鳴っていない、今も中庭にいるのかも知れない。
そう思うと、俺の足は自然に中庭へと向かっていた。
・・・少し、様子を見るだけだ。
俺は校舎を背に、そっと角から中庭を伺い見た。
・・・いた。花壇の隅で、小さな人影が動いていた。
少女はシャベルを手に、土をいじっている。特に変わった様子はないようだ。
帰ろうかとしたそのとき、不意に少女が顔を上げた。
「!」
俺は咄嗟に身を隠したが、かすかにだが確かに少女の声が聞こえた。
しまった、気づかれたか・・・。
観念して俺はもう一度校舎の影から中庭を覗く。
やはり、少女はしっかりとこちらを見ていた。
「・・・」
しばし迷った後、俺は意を決して、中庭へと足を踏み入れた。
少女は手を止めて、近づいていく俺をじっと見ている。
警戒しているようには見えないが、ある程度距離を置いた所で俺は足を止めた。
「さっきは悪かった。クラスの奴が・・・」
「あ、いえ・・・気にしてません」
「そうか・・・」
俺は踵を返した。ただそれだけ云いたかったのだ。
だが。
「あ、待ってください!」
思いがけず呼び止められて、俺は足を止めた。振り向くと、少女はシャベルを手にしたまま立ち上がっていた。
近くで見る少女はかなり小柄で、華奢だった。髪は短く、瞳は黒く大きく、小動物のような印象を受けた。
右腕には、花壇係の腕章がついている。
「あの、わざわざそれを言うために来たんですか?」
「・・・そうだが」
「優しいんですね」
少女ははにかみながら、そう云った。俺は迂闊にもその言葉に少し動揺してしまった。
「いや、そんな事は・・・」
「優しいですよ」
少女は再び、しゃがみ込んで土をいじり始めた。
「・・・どうして花壇の世話をしてるんだ?」
俺は少し花壇に近づき、訊いてみた。
「私、花壇係ですから」
「誰も世話なんてしてないのに」
「でも、花壇係って花壇の世話をする係ですよ」
「それはそうだが、今まで誰も世話なんてしてなかったんだ」
少女はふと手を止めて、俺を見上げた。大きな丸い瞳は、どことなく寂しそうに見えた。
「係もあって、花壇もあるのに、どうして誰も世話しないんでしょうね」
「さぁ・・・。ほとんど、あってないようなものだな」
少女は再び土をいじり始めた。
「でも先輩は、この花壇のことを気にしてたんですよね」
「え?」
「私、ずっと知ってたんですよ。先輩がこの花壇を見てること」
俺は不覚にもかなり動揺した。窓から身を乗り出したりした事はない。いつも窓の側からそっと見ていただけなのに。
「私、目はいいし、先輩マスクしてて目立ちますから」
「そ、そうか」
「やっぱり先輩、優しいんですよ。お花が好きな人はみんな優しい人なんです」
「・・・」
別に俺は、特別花が好きなわけではない。この少女が手入れを始める前はその廃墟じみた姿に惹かれていただけだし、花壇らしくなってからは、事の成り行きが気になって見ていただけだ。
だからか。『優しい』などと云われても、どこか他人事のように感じられる。
けれど、それを口にすることは憚られて俺は沈黙していた。
「君は、花が好きなのか」
「好きです。私の家、花屋ですから」
「そうなのか」
何となく、この少女が花壇を放っておけない理由がわかった気がした。花に対する想いは人一倍なのだろう。
俺はしゃがみ込み、少女が手をかけている花壇をじっと眺めた。
名も知らぬ色とりどりの花々が咲き誇り、廃墟だった姿はどこにもない。花が好きではなくても、美しいと思える景色だ。
だが俺の目の前に、花の絨毯をいびつに切り取るただの草がある。
無粋な雑草を駆逐してやろうと俺は手を伸ばした。
「あっ!!!」
急に声を上げられて、慌てて手を止める。
「それ、抜いちゃ駄目です!昨日植えたばかりの苗ですから」
「わ、悪い。雑草だと思った」
すると少女はくくっと小さく笑った。
「・・・俺に手伝いは無理なようだな・・・」
「そうですね。先輩は、手を出しちゃ駄目ですよ」
手出し無用を言い渡された俺は、その場で大人しくしていることにした。
帰ろうという気にはならなかった。何もせず、ただてきぱきと働く少女を見守る。
・・・妙なものだ。この忘れられた花園に魅せられた俺と、それを憂う少女。
互いに知らないと思いながらも、少女は俺の存在を知っていたと云う。
思えばそれも必然なのかもしれない。彼女は、この学校に置ける『普通』を『普通』と認識していない。ということは、彼女も俺と近い次元に生きているのではないか。
不意に、俺は少女について知りたいと思った。これは恐らく、同類を求める魂の欲求そのものだ。
思えば俺はいつしか、花ではなく、この少女の事ばかりを見ていたのだ。廃墟に舞い降りた天使・・・この目に映る真実の姿を。
そうだ。けれど、俺はまだこの少女について何も知らない。この咲き誇る花達と同じように、名前でさえも。
その時、下校時刻を告げるチャイムが鳴った。
かれこれ1時間近く、俺はこの場でじっとしていたらしい。
「あ、そろそろ帰らないと」
少女はさっと立ちあがり、てきぱきと周りの片付けにかかる。何か手伝おうかと思っているうちに、少女は全部道具を持って中庭の隅にある倉庫に駆け出していた。
・・・また、何も出来なかった。
仕方なく、そっと立ち去ろうとしていると後ろから声がかかる。
「あ、あの!」
「?」
「先輩の名前、聞いてもいいですか?」
俺は驚いた。まるで、俺の心の中を読んだかのような言葉だ。まさか本当に、そんなことが?
「・・・枝藤、菖一。3年だ」
「3年生、なんですか」
少女は呟き落とすように小さく云った。それから、
「私は、ひなたかのんです。1年生です。日に向かう花の恩って書いて、日向花恩です」
「そうか」
カノン、か。名前にまで花の字が入っているとは、本当に彼女と花は切っても切り離せない関係なのだろう。
「先輩の名前は、どういう字を書くんですか?」
「え?」
思いかげない質問だった。自分の名前の漢字について説明した事などなかったし、興味を持った事すらなかったからだ。
「しょうは草冠に日が2つのと、いちは数字の一・・・」
「菖蒲のしょう、ですね」
「・・・そう・・・なのか?」
「あやめ、とも読みますよ。先輩の名前にも、花の名前が入ってるんですね」
少女、花恩は嬉しそうに笑った。
その笑顔は、まるで花がほころぶようで。
何か、熱いものが胸に広がっていくような感覚を覚えた。
そして俺は確信したのだ。やはり、俺と彼女は、この箱庭に放たれた『真実を知る者』なのだ。
俺自身ですら気づいていなかった、花といういわば見えない鍵によって、俺達は繋がっていた。
この巡り合いも、全ては観測者達の手の内で結ばれたものなのだろうが。
「それじゃ、私職員室に鍵返しに行きますね。枝藤先輩、さよなら!」
花恩は一礼すると、そのまま中庭に面した1年の教室の方向へ走っていった。1年の教室には全て、中庭に面した小さなバルコニーが設置されているために、下足さえあれば教室からそのまま中庭に出ることができる。
俺は花恩が教室に消えるのを見送ってから、中庭を後にした。
変わり逝く季節と共に、花恩の花壇もまた色を変えていく。
秋に差し掛かったというのに、花壇にはまだ色とりどりの花がささやかな彩りを放っていた。
そして、秋の空気と共に、この教室のざわつきもどことなく静まり、張り詰めたものが漂い始めている。
もうすぐ2学期の期末テスト。冬休み前のこの時期は、世間一般的に『受験生』と呼ばれる俺達にとって、追い込みをかけるべき大事な時期と云われている。
俺以外の全員は既に進路を決め、それに向けて日々勉強でもしているところなのだろう。
学校で与えられる選択肢は、「進学」「就職」の2つしかない。
けれども俺が進みたい道は、そのどちらでもない。
俺は未だ、『第3の道』への入り口を探しているのだ。
高次元へ―俺が還るべき道への鍵は、何処にあるのか?
「枝藤。いい加減現実を見なさい。そろそろ本気で考えないと、この先完全に行き詰ってしまうぞ」
低俗な教師は、とにかく進学を勧める。
今の時代、高校くらいは出ておかなければ厳しいという一点張りで、こちらの話にはまったく聞く耳を持たず、目の前に1枚のカードを出し、それを引くように強要する。
こんなのものは面談でも何でもない。踏み絵に等しい行為だ。だがそれを引かない限り面談は終われないと言うので、仕方なく俺は引かざるを得なかった。
そうして教師から開放された俺は、その足で何となく中庭へと向かった。
唐突に、花が見たいと思ったのだ。
中庭に行くのは、初夏のあの日―花恩と初めて言葉を交わした日以来だ。
いつも、俺は上から見ているだけだった。
花も、それを世話する花恩も。
けれども今日は、無性に花を近くで見たいと思った。
下校のチャイムが鳴るまで拘束されていたので、もう花恩はいないかも知れないが・・・。
紅葉の名残が残るどことなく寂しげな中庭の木々の隅に、ピンクや白の鮮やかな一帯が広がっている。
当然ながら、下校時刻を過ぎているために人の姿は見当たらない。教室の窓も、殆ど明かりが消えている。
俺は花壇に近づき、ピンク色の花をしげしげと眺めた。
変わった形の花びらだ。全体がひっくり返ったように、花びらが上を向いている。
「枝藤・・・先輩?」
ふと、聞き覚えのある声がした。
声のほうを見ると、暗い教室の中から、花恩がこちらを覗いている。
花恩は俺に気づいて、教室から駆け出してきた。
「久しぶりですね」
「そ、そうだな」
花恩とは、1年と3年だけあってか学校内で会うことは殆ど無かった。いつも教室の窓越しに小さく手を振ったりするくらいで、直接言葉を交わすのはあの日以来だ。その為か、妙に気恥ずかしい心地がする。
「そのお花、シクラメンっていうんです。冬でも咲くんですよ」
「そうか。・・・綺麗だな」
俺はそっと花びらを撫でてみた。小さくて、少し力を入れれば簡単に壊れてしまいそうだ。
じっと、花恩が横で俺を見ていることに気づいた。
「先輩。風邪、ずっと治らないんですか?」
「え?」
「マスク、いっつもしてる。それに眼帯も。私、ずっと心配で」
「あぁ・・・別にどこか悪い訳じゃないんだ・・・」
俺はそっと眼帯をつけた左目に触れた。花恩は不思議そうな目で俺を見ている。
「そう、なんですか?」
「あぁ。隠しているんだ。俺は、視えすぎてしまうから」
「???」
「観測者が、たまに俺にこの世界の真の姿を見せるんだ。そして、俺の口を借りて、それを世界に発しようとする。それはいい事ばかりじゃない、殆どはラグナログの予兆なのさ。そんなものを聞いたら、世界はたちまち混乱の坩堝と化すだろう。だから、そんな禍をもたらす俺の口は、塞いでおかなければならないんだ」
花恩は黙って俺の言葉を聞いている。だが、表情は暗く、どこか怯えているように見える。
普通の人間なら、一笑に付して終わるところなのだが。
「・・・どうした?」
「な、なんだか怖い」
俺は少し焦った。怖がらせるつもりは無かったし、何よりここまですんなりと受け入れられたことは、今まで無かったからだ。
俺は慌てて、花恩を宥めにかかった。
観測者の声は悪ではない。真の悪たるラグナロクを止めるための神託であり、俺はそれを受けて世界の終焉を阻止するための存在なのだと云う事を、必死で訴えた。
その甲斐あってか、花恩の表情は徐々に和らいでいき、今ではすっかり俺の話に聞き入っているようだった。
「信じるのか・・・?」
「信じますよ。先輩、嘘を言う人には見えませんし。・・・どうしてそんな事聞くんですか?」
花恩はきょとんとして云った。
「・・・誰も信じてはくれなかったんだ。だから、受け入れられていることが逆に不思議な感じで」
すると、花恩はふふっと笑った。
「何だか、気持ち分かります。私もずっと一人で花壇のお世話してて、クラスでは変わった子みたいに見られてて。でも先輩が見ててくれることに気づいて、すごく嬉しかったんです。今も頑張れてるのは、先輩のお陰なんですよ」
「そう、だったのか」
花恩もまた、一人暗闇を生きて来たのか。そしてそこでようやく見つけた光が俺・・・だと?
妙だ。妙に気持ちが高揚している。こんなに浮ついた気持ちになったのは、初めて観測者の声を聞いた時以来かも知れない。
「私達、なんか似てますよね」
花恩が照れたように笑っていった言葉に、俺は確信した。
やっと見つけた。俺の、イヴ。
すっかり日も落ち、俺達はそのまま一緒に帰ることにした。
歩きながら色々と他愛もない話をしているうちに、話題は進路の事になっていた。
「進学にしたんですか」
「まぁ、な。仕方がなく」
「何処を目指すんですか?」
「まだ決めてない。別に、行きたいところもないしな」
「ふぅん。某校とかどうですか?先輩なら狙えちゃいますよ」
「いや・・・無理だよ」
「でも先輩、頭いいでしょ?テストの順位発表で名前、よく呼ばれてるじゃないですか」
某校とは、このあたりの地区で一番レベルの高い進学校だ。学年10位以内にたまに滑り込める程度の俺では、とても手が届かない。
とはいっても別に惹かれるところもないし、何の感慨もないのだが。
「そんな事ないですよ。・・・私はどう頑張っても無理だし」
「花恩は?何位くらいなんだ?」
「えっ!?な、内緒です!絶対言いませんから」
花恩は急に頑なに口を閉ざしてしまった。無理に聞きださなくても、その様子から何となく察しは付く。
「やっぱりね、行けるならいい高校行ったほうがいいと思うんです。行きたいところがないならなおさら」
花恩はどこか遠くを見つめながら云う。
「ほら、たくさん勉強すれば、先輩の知りたいことが分かるかも知れないし。この世界が造られた物だと知ってても、その全部を知ってるわけじゃないでしょ?世界には、私達の知らないことがまだまだたくさんあるんですよ。世界を救いたいなら、まずはそれを知らなきゃ」
俺は黙って花恩の話に耳を傾けていた。何故か、花恩の言葉は抵抗なく俺の中に入ってくる。
「って、何偉そうな事言っちゃってんだろう私。頭悪いくせに」
花恩は照れたように笑った。
「いや・・・そうかもしれないな。・・・考えてみる」
「うん。・・・ところで先輩?今も声が聞こえたり、視えてたりするんですか?」
「え・・・いや別に何もないが・・・」
すると花恩は、ばっと俺の目の前に出て、
「ねぇじゃあ、先輩の顔見せてください。」
「え?な、何でだよ」
「気になるんですもん。眼帯とマスクじゃほとんど見えないし。ね、ちょっとだけ見せてくださいよ」
「駄目だ。これはパンドラの箱なんだ」
えぇーっと、花恩は不満そうな声を上げた。俺の前から退いて、再び歩き出す。
「でも先輩の話、全然怖くないですけどね。最初はちょっと怖かったけど。禍なんかじゃないと思うけどなぁ」
「それは、花恩だからだよ。耐性があるんだ」
「ふぅん」
花恩は唸って、未練がましそうな目でちらちらと俺を見上げてくる。仕方なく、俺は折れてやることにする。
「・・・わかったよ。いつか、見せるよ」
「ほんとっ?」
花恩はぱっと、目を輝かせた。
「そ、そんな目で見るなよ。言っとくけど、くれぐれも期待はするなよ?」
花恩は聞いているのかいないのか、上機嫌にはしゃいでいる。
俺は少し呆れながらも、それ以上に嬉しかった。
知らなかった花恩の一面を、今日はたくさん知ることが出来た。
けれどまだ知りたい。もっと知りたい。
人と触れ合い、馴れ合うことを面倒だと感じていた俺が、初めて自分から人に歩み寄ろうとしている。
そんな自分の変化が不思議で、けれども悪くはない。いや寧ろ、いい事なのだ。
それから程なくして道の途中で別れるまで、俺は花恩に話を振り続けた。
進路はとりあえず決めさせられたものの、俺は未だ行きたい学校の見当すらも付いていない。
学力的には、某高より2ランクほど下の公立校が妥当かとは思う。けれどそこには行けない、というか行きたくない決定的な理由がある。それは、遠すぎるのだ。通うなら、寮に入らなければならない。
私立には経済的な理由で行く事は出来ない。そのため公立校内でランクを下げていくと・・・・・・
俺には絶望の未来しか見えない。
あとは別に興味もないような商業高校か、地元の落ちこぼれが寄り集まるような高校ばかりなのだ。
人生における選択肢が少ないというのは、実に損だ。
カタン。
手慰みに回していたペンが、不意に右手から滑り落ちた。
俺はそれを緩慢な動作で拾い、中庭に目を移した。今日も、花恩の花壇の花達はささやかに咲いている。
一息ついて再び机の上の高校の資料に目を戻すと、美貴が教室に入ってきた。
「あれ?枝藤まだいたんだ」
「・・・今週中に志望校を決めなければならないんだ」
「へぇ。結局進学にしたのね」
美貴は机の上の資料を見やると、思いついたように云った。
「あんた、某高にしたら?」
俺はその言葉に妙な縁を感じた。この前花恩に云われてから、ほんの僅かながら某校への意識が芽生え始めていたからだ。
とはいっても、某校へ入るのは簡単な事ではない。今の俺が志望すれば、無謀な挑戦だと嗤われるだけだろう。
俺が黙っていると、美貴はかまわず続けた。
「あたし、こないだ説明会行ってきたんだけど。あんたが好きそうな部あったよ。オカルト研究部」
「な・・・ほんとか!?」
「おう。たしか資料あったと思うけど・・・あれ、捨てたかも」
その時俺の中で、急激に某高という存在の価値が上昇した。今までそこには殆ど何の興味のなかったのだが、まるでビッグバンのように急膨張したのだ。
「ま、明日また説明会あるし?とりあえず行ってみたら?」
早速俺は説明会に参加することにした。
そして、その日から俺の中での某高は、限りなくゼロの存在から、目標へと成り上がったのだった。
某高。
偏差値70とも云われる、このあたりの地域・・・いや県内一と云っても良いほどの進学校だ。
入れば親類一同、近所の人達からも賞賛されるだろう。
それにやはりレベルの高い学校だけあって、部活や同好会などもかなり充実している。
・・・俺は知らなかった。興味が無かった、という理由だけで情報を遮断してしまっていたのだ。
その時、俺はふと気づいた。
この所、俺は他人の言葉に耳を傾けるようになっている。
花恩然り、美貴の言葉然りだ。
今までは、他人の言葉に興味など全く無かった。というのも、俺に降りかかるのは大抵否定や強要、非難などばかりだったからだ。他人と言葉を交わすことに意味が見出せず、次第に俺は分かり合う事を諦めていった。
それが今は、何故だろうか。
俺の中で、特別何かが変わったような気はしない。ただ、分かり合えそうな人間が見つかっただけだ。
・・・いやこれは、十分な変化だろうか?
他者と関わると、少なからず自身にまで変化が及ぶものらしい。ともあれ、他人と交流することも、悪い事ばかりではないと初めて思う事ができた。
後日。時は放課後。
再提出を命じられた進路調査用紙に、俺は迷うことなく志望校を書き込んだ。
書いたのは、もちろん某高だ。
すると、教室に残っていたガンリキが振り返り、用紙を覗き込んできた。
「お!枝藤も某高か!」
見るなり、ガンリキは嬉しそうに云った。
「やったな!」
「何がだ・・・」
「エ!仲いい奴が同じ高校だと嬉しくね?まぁ美貴もだけどそんくらいしかいねぇっぽいし」
俺は唖然として思わず手を止めた。ガンリキはきょとんとした顔で俺を見ている。
「もう合格したつもりでいるのか。・・・まぁお前なら問題ないだろうな」
ガンリキはこう見えて学年トップの成績だ。美貴も次いでの成績で、2人とも何度となく満点を取っている。点数が同じでも、名簿のせいで絶対にガンリキの次に名前が載ることを、美貴はかなり不満がっていた。
「いやぁ、うちの中学レベル低いしわかんねぇよ?まぁ頑張るけどな。なぁ、絶対3人で某高行こうゼ!」
ガンリキは爛々と目を輝かせて云ってきた。その姿勢には妙な気迫がある。
「い、行けるのかな。お前らはいいとして俺は・・・」
「だから行くんだよ!枝藤お前、行きたいから志望校に書いてんだろー?なら弱気になってんなよ!今から本気出せば十分間に合うって!!」
「あ・・・あぁ」
やがて騒ぎを聞きつけたのか美貴まで加わってきた。俺が某高志望であることを知ると、へぇっと関心したような声を零した。
「そんなにオカ研魅力的だった?なら絶対合格しなきゃじゃん」
「だよな!おし!これから早速勉強会しよーゼ!」
その後、半強制的に図書室へ連れ込まれ、勉強会が開催された。勉強会といっても、その実俺の集中講義のようなものだった。2人が引っ張り出してきた過去の定期テストを解き、間違えた部分を徹底的に解説される。
2人とも、今のままでは俺の合格が難しい事を知っているのだ。
だが、そんな2人の行動は、有難くはあるが同時に俺に大きな戸惑いをも生んだ。
―何故、わざわざ俺の為にこんな事をするのだろうか?
元々人と関わるのが苦手な俺だ、クラスで唯一交流があったと呼べる2人ではあるが、こんな風に手を焼かれるだけの関係を築けて来たとは思わない。それに比べ2人は友達も多く、他にいくらでも親しい人間がいる筈だ。
彼らは花恩ほど俺には近くない。いや・・・どちらかといえばの他大勢の人間と限りなく同じだ。けれど、俺を排他せず、こうして無駄な世話を焼いている。
一体何故なのだろう。
ともあれ、目標が定まった事で俺は覚醒し、生まれ変わったかのように勉学に勤しむようになった。
問題集を持ち歩き、家でも外でも、少しでも時間があればひたすらこなし続けた。毎日眠くなるまで続けている為、必然的に睡眠時間も減っていく。だが、不思議と疲れを感じることがない。選ばれた者の特権か。
当初は志望校に難色を示していた教師も、少しずつ認識を改め始めている。
そして冬休みが終わった今。ガンリキ達の手助けもあり、俺は平均点を15点近く引き上げる事に成功した。
某校の合格ラインギリギリと云う所まで辿りついたのだ。
全てが順調に進んでいる。このまま突き進めば、合格も夢ではないかも知れない。
そんな中、俺は久しぶりに中庭に向かってみる事にした。
ここ数ヶ月の俺は勉強に没頭するあまり、花壇を見下ろす事もしなくなっていたのだった。
思えば、某校への意識を植え付けてくれたのは花恩だ。花恩の言葉がなければ、いくらオカ研の情報を美貴からもたらされても、目指す気にはならなかったかもしれない。
だからこそ、花恩にはきちんと目標を射程内に捉えてから報告がしたかった。そして今日こそ、それが出来る日だろう。
放課後の中庭には相変わらず人の気配がない。
うっすらと雪の積もった花壇に、まばらに花があるばかりだった。
冬で雪が積もったせいもあるだろうが、それにしても、その物寂しい姿は一時の華やかさが嘘のようである。
見渡しても花恩の姿はなく、教室の明かりもついていない。もう帰ってしまったのだろうか。
仕方なく踵を返そうとした時、表の方から、わずかに雪を踏む音がした。
「先輩・・・?」
見ると、茶色いコートとブーツに身を包んだ花恩が立っていた。
「久しぶりだな・・・」
「ええ。びっくりしました。ちょっとだけ花壇見て帰ろうと思って来たら先輩いるんですもの」
何か妙に思った。花恩はいつも教室から直接ここへ来ていた筈だ。それが今日は玄関から・・・?そういう日もあるという事なのだろうか。
「先輩、眼帯してないんですね」
「・・・勉強の邪魔になるからな」
そういえば、いつからしていなかったかも忘れていた。
「すごいクマです。・・・大丈夫、ですか?」
花恩は心配そうな顔で俺を見上げている。鏡なんてろくに見ていないから分からなかったが、それ程ひどい顔をしているのだろうか。
「大丈夫だよ。体は何ともないし、それに試験まであと1ヶ月くらいだから」
それから俺は、満を辞して告げた。
「俺、某校受ける事にしたんだ」
すると花恩は、大きな丸い瞳を見開いて云った。
「えっ、ほ、本当ですか?」
「あぁ。目指す気になれたのは花恩のお陰だよ」
「そんな・・・」
花恩は、そっと目を伏せて花壇のほうを見やった。
「そういえば、花少なくなったよな」
その視線の先を見て何気なく云うと、花恩は少し気まずそうにして、
「この頃、あんまりお世話してなかったんです。先輩が見てないって思うと、気が進まなくなっちゃって」
「・・・・・・」
「あ!す、すみません、勝手な事云っちゃって。・・・変ですよね、誰かのために始めたわけじゃないのに・・・」
花恩は少し顔を赤くして、指をもじもじと動かしている。
「また、やってくれないか?今度からはちゃんと見るから・・・」
俺が云うと、花恩はぱっと笑顔になった。
「・・・はい!あ、でもさすがに雪があるから、新しいのは植えられないですけど・・・」
「今ある分だけでいい。花恩の花が、見たいんだ」
俺は、花壇を見なかった事をひどく後悔した。
某高に合格する事は勿論大切だ。けれども、それ以上に大切なものがあることに、俺は気づいていなかったのだ。
花は、日が当たらなければやがて枯れてしまう。花恩という花を枯らしかけたのは、紛れもなく俺だ。
俺達はアダムとイヴ。お互いになくてはならない関係だったのに、俺は自分の事しか視えていなかった。
それから俺は最後の追い込みをかけるべく、一層努力した。疲れては時折花壇を見下ろし、花恩の育てる花に癒された。
雪避けが設置された花壇のシクラメンは、寒さにも負けず元気に咲いている。
そしていよいよ入試も3日後に控えたある日の放課後、事件は起こった。
俺は例によって一人教室で勉強していた。
普段はガンリキ達もいるのだが、今日は用があると云って早々に下校している。
しばし問題を解く事に集中していた時。
妙に外が騒がしくなり始めた。何人かの声に混じって、時々何か硬い音もする。
不穏なものを感じ外を見ると、中庭の前を金属バットやら何やらを持った男数人が連なって歩いていた。その出で立ちで、同じ学年の不良グループだと分かる。奴らは木の柵や大きめの石など、傍にあるものを手当たり次第に蹴ったり殴ったりしながら、傍若無人に行進している。
見ているだけで反吐が出そうな連中だ。周りからあぶれ行く先も決まらず、そのストレスをああやって解消しているのだろう。
幸い花壇に花恩はおらず、俺は無視してまた机に向かおうとしたが。
何か嫌な予感がして、再び窓の外を見た。
・・・あのまま大人しくここを通り過ぎてくれ。
そう願いながら、俺はじっと男達を見ていた。
しかし。そんな俺の願いも空しく、グループの先頭の男が不意に中庭の方に顔を向けた。それを合図に、奴らはズカズカと中庭に侵入し始めたのだ。
まずい・・・。このままでは花壇が危険だ。
これは来るべきラグナロクだ。今こそ、闇の隠者枝藤の真の力によって邪を滅ぼし、世界を救うのだ。
頭では分かっている。・・・だが、出来ない。どうしても足が動かない。
何故だ!?何故こんな肝心な時に力が沸いてこない!?
俺は思わず自嘲の笑みを零した。ずっと目を塞いできた事実が、容赦なく目の前に立ち塞がる。
・・・答えは簡単だ。はじめから、そんな力などないのだ。
俺は闇の隠者でもなんでもない、ただの人間。あんな不良5人を相手に出来るだけの強さも何も持たない、弱い人間。
弱いからこそ、人と上手く付き合えないからこそ、俺は俺だけの“世界”を創り、そこに逃げ込んでいたのだ。
認めてしまえば、嗤える事ばかりだ。俺がずっと憧れ続けてきた“観測者”とは、他ならぬ俺自身ではないか。
こんな俺にできることは、ただ奴らの興味が花壇に向かないことを祈る事だけだ・・・。
そんな下らない俺の耳に、一瞬、聞き覚えのある声が届いた。
下種な男の笑い声に混じる、女神にも似た声が。
そのとき俺は弾かれたように、教室を飛び出していた。
中庭に着いたとき、魔の手はまさに花恩に伸びんとしていた。
「やめろッッ!!!」
俺は無心でリーダー格の男に、持ってきた辞書を投げつけた。かなりの重さがある辞書の一撃は効果的で、男は大きくよろめく。その隙に俺は花恩を不良どもから引き離した。
「せ、先輩!?」
「花恩、逃げろ!!」
「あぁ!?誰だオメェ」
「こいつ知ってる!なんか闇の隠者ーとか訳わかんねー事いってる奴っしょ。」
どっと男共の間に嗤いが起こる。
「そうだ!俺が闇の隠者だ!貴様らをここに降伏させに来たのだ!!!」
俺が叫ぶと、男達は腹を抱えて嗤いだした。
「ヤベーヤベー噂以上じゃん!!」
「マジで云っちゃってんの?え?あれマジなの!!??」
嗤う男達の横から、最初に辞書を食らった男が出てきた。名前はたしか半沢。ただ一人、獣のような目で俺を睨んでいる。
「・・・どうでもいいけどさぁ。分かってんの?オメェがこれからどうなるか。黙ってりゃ手出さねぇつもりだったけど、もう遅ぇよ?」
「わざわざ訊かれるまでもない。俺は、これからお前らを滅する!!!」
手から波導が出るイメージで、思い切り正拳突きを繰り出した。それは見事に目の前の男のみぞおちを捉え、男は沈んだ。・・・しかしよく見ると、倒れたのは半沢ではなく、その後ろにいた男だった。半沢には避けられていたのだ。
だがターゲットを外したとはいえ、自分でも驚くほどの威力だ。まさか本当に、俺は闇の隠者なのか・・・?
そう思いかけたとき、とんでもない衝撃が俺を襲った。
気がついた時には俺の視界は反転しており、冷たい雪の感触と、錆の味、そして猛烈な痛みが全身を支配していた。
「先輩、先輩!!!」
遠くで花恩の叫びが聞こえる。
「に、逃げろ・・・花恩・・・」
「ダッセェな、たった一撃でダウンかよ?弱ぇくせにケンカふっかけてんじゃねーーーよッ!」
半沢は俺の右腕を力いっぱい踏みつけた。
「やめてっ!」
花恩がまた叫ぶ。
「君もさー、キャンキャンうるさいよ?1年生だよね?俺ら3年なんだけど?あんま先輩を怒らすとさ、女の子でも容赦しねぇよ?」
男達の視線が、一斉に花恩に注がれた。
俺は鉛のような体に鞭打ち、這ったまま制服のポケットをまさぐった。何か、何かないのか。
力が入らない右手は諦め、左のポケットを探る。そこで手に当たったものを、俺は力の限り振り下ろした。
「いっでぇぇえええ!!」
たまたま入っていた携帯電話につけていた、聖剣エクスカリバーのストラップ。その尖った切っ先が、花恩に群がる男の一人の脛に当たったのだ。
「テメ・・・マジで死にてぇみてぇだなぁ?」
仲間がやられた事で半沢はいよいよ鬼のような形相になった。周りの男達も、花恩ではなく俺を標的と定める。
これでいい。花恩さえ逃げてくれれば・・・。
半ば覚悟を決めかけたとき、野太い男の声が聞こえた。
「コラッ!何してるんだ!!!!」
その声が聞こえるや否や、不良達は情けない事に一斉に退散していく。
実に、下らん奴らだ。粋がっていても教師には逆らえないのだ。けれど、今は助かったという気持ちが大きい。
遠くに花恩の声を聞きながら、俺の意識は急速に遠のいていった。
そして時は流れ、ついに、この中学生活に終止符を打つ日が訪れた。
形式ばった儀式を淡々とこなしつつ、長かったようで短かった3年間に思いを馳せる。
あの事件のあと、花壇は半沢達の逆襲に遭い、完膚なきまでに破壊されてしまった。
俺は、何も出来なかった。
すぐに受験が控えていたのもあるが、物理的にも不可能だった。あの後俺は、わずかばかりの通院を強いられてしまったからだ。
けれど、次に学校に顔を出したとき、花壇はすっかり修復されていた。
聞けば、ガンリキと美貴と半沢達がやったらしい。
驚く事にガンリキと美貴は、実力行使で半沢達を屈服させ、すっかり手なずけてしまっていたのだ。お陰で俺が学校に来た時、まず半沢に頭を下げられるという場面に遭遇した。
俺は思わずガンリキに「何故そこまでするんだ」と訊ねた。
すると、ガンリキはあっさりとこう答えたのだ。「友達だから」と。
『友達』。ずっと心のどこかで憧れていたが、いつしか諦め、必要ないと割り切っていたものだ。
だから、これ程簡単に「友達」と云われることに、俺は大きな抵抗があった。けれどもまたガンリキは笑ってこう云うのだ。
「俺がそう思うんだからいいんだよ!」と。
そして、俺はその言葉にどこか目を覚まされたような気がした。
俺は、大きな誤解をしていたようだ。
よく説明できないが、友達とは、そういうものなのだろう。
友達だと思う事にも、その者の為に何かをするのにも、特別な理由は必要ない。いや、理由などつけてはいけないのだ。
この世界は、誰が創ったものでもないのだから。
だが、一つだけ元に戻らなかったものがあった。
それは、花壇の花だ。
修復されてからも、そこに花が植えられる事はなく、花恩の姿もそこに見る事はなかった。
花の無い花壇。それはまるで、命の灯っていない抜け殻のようだ。こういうものが好きだった以前と違い、今はただ胸が締め付けられる。
半沢は、花恩には何もしていないと云う。だが、あれから一度も花恩の姿を見る事はなく、学校に来ているのかすらわからない状態だった。
理由は、何となく想像が付く。
花恩の事だ、きっと、あの事件について責任を感じているのだろう。
俺は、何としても今日中に花恩に会わなければならない。
会って、伝えなければならない。
学校で会えなければ、家にまで行くつもりだ。前に家は花屋だと云っていたから、調べは付いている。
そして式は終わり、卒業生は退場となる。
間際にもう一度1年生の座るあたりを入念に見たが、やはり花恩は見当たらなかった。
だが、教室に戻るなりわざわざ半沢がクラスにやってきて、俺に云った。
「あの子、いたッスよ」
俺は、卒業生の誰よりも疾く、外へと飛び出した。
昇降口から校門までは、見送りの在校生でごった返していた。
ただ一人出てきた俺に小さなどよめきが起こったが、俺は気にせず目を皿のようにして花恩を探す。
が、いない。どこにもいない。
「花恩・・・1年の日向花恩は!?」
目が合った女子に問うと、
「えっ?!た、多分帰っちゃったかと」
たまたま1年生だったのか、困惑気味にもそう教えてくれた。俺は、その言葉を訊くや再び全速力で駆け出した。
花恩の家は、ここから歩いて20分ほどの距離にある、大通りに面した花屋だ。
式が終わってすぐに帰ったとしても、まだ家には着いていないだろう。とにかく俺は、花恩の通学路であろう道をひた奔った。どこかで花恩に逢えることを信じて。
川沿いの道を奔っていると、前方に小さな人影が見えた。
少しずつ形がはっきり視えてくる・・・。茶色いコート。・・・花恩だ!
「かのぉおおんッ!!!!!」
俺は叫んだ。すると、一瞬歩みを止めた茶色い人影は、奔りだしてしまったのだ。
何故だ・・・どうして逃げるんだ!?頭の中が一瞬にして混乱で埋め尽くされる。
こんな展開は予想出来なかった。花恩が俺から逃げるなんて・・・。けれども、俺は諦めることなく、必死に叫び続けた。
「待てっ、待ってくれぇッ!!花恩ッッ!!!」
ずっと奔り続けているせいもあり、息が苦しい。口を塞ぐマスクを引き剥がし、俺は懇親の力で叫んだ。
「受かったんだッッッ!!!!!」
すると、影の足が急に鈍くなった。ここぞとばかりに奔って、距離を一気に詰める。
「ハァッ、ハァッ・・・」
ようやく追いついたとき、情けなくも俺はその場に倒れこみそうになった。けれども、花恩が立ち止まってくれた事に、そしてようやく話が出来る事に・・・疲れ以上の安堵を感じる。
「え、枝藤、先輩・・・」
花恩は、今にも泣き出しそうな顔をして俺を見ている。
「受かったんだ、俺、某高・・・」
再び伝えた。
「ほ、本当・・・?本当なんですか・・・?」
「本当だよ・・・」
俺はようやく息を落ち着かせ、しっかりと正面から花恩を見据えた。花恩は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに顔を崩し、
「よかった、本当によかった・・・」
ついに、泣き出してしまった。そんな花恩の小さな体を、俺はそっと抱きしめた。
「だ、ダメだったんじゃないかって、私のせいで・・・」
「花恩は、あの花壇を守ろうとしただけじゃないか」
「でもっ、そのせいで先輩、怪我を・・・」
「怪我・・・。大した怪我じゃないけどな」
花恩は俺の腕の中で、涙に濡れた顔を上げた。
「お、大怪我じゃないですか!骨折でしょ?しかも右手・・・」
俺は思わず耳を疑った。一体どこからそんな話を聞いたのか。
「してないよ。打撲と、軽い捻挫だけだ。確かにしばらくペンは持てなかったけど、俺、左で書けるし別に問題なかったよ」
花恩は潤んだ瞳を丸くした。
「そうだったんですか・・・。骨までいってるかもって先生が云ったから、私てっきり・・・」
花恩は安心したのか、また涙を零し始めた。花恩が落ち着くまで少し待って、俺は腕を解いた。
「それより、何で花植えてくれなかったんだ?花壇、元通りになったのに」
俺が訊ねると、花恩は少し目を伏せ、躊躇いがちに話し始めた。
「私、花壇が壊されたとき、よかったって思ったんです。なくなっちゃえば、先輩が私の事思い出して嫌な気持ちになることもないだろうって・・・」
「だから、俺を避けてたのか」
花恩は俯いたまま、頷いた。
「あの花壇は、俺にとってはすごく大事なものだよ。あれがなければ、きっと花恩に出逢えなかった。そして、花恩に出逢えなければ俺は、今も俺自身の世界に閉じこもったきりだった。現実から逃げ続けたまま、某高を受けようなんて考えもしなかった筈だ」
花恩は伏せていた顔を上げ、涙を貯めた目で俺を見た。俺は、一呼吸置いて、言葉を紡ぎ出す。
花恩に伝えたかった事。某高に合格した事、そしてもう一つ。
「花恩が、好きだ」
花恩は、手で口元を覆い隠し、また泣き出した。まさか、拒絶の涙か?そう思う程に花恩の泣き方はさっきよりも激しい。
恐る恐る触れようとした時、花恩が胸に飛び込んで来た。そして、涙でくしゃくしゃに濡れた笑顔で、云った。
「私も、好きです。先輩」
それから河原の東屋に移動し、川を眺めながらしばらく話をした。
俺の『世界』、それが出来た切っ掛けは、小さい頃に見たちょっとした夢だった。今ではうろ覚えだが、宇宙人のようなものに連れ去られ、『世界を救え』という指令を与えられる、というようなものだった。
昔から人付き合いが苦手だった俺は、そこで見た別世界に救いのようなものを感じたのだ。
やがてその『世界』は、俺が成長して得た色々な知識を吸収し膨れていく。そして、いつしかそこは俺の理想郷へとなっていた。詰まらない現実から目を背け、特殊で心躍る仮初の現実に浸る事のできる、俺だけの退廃的で美しい『世界』。それを追い求める事で、俺は心の安息を保っていたのだ。
「だから、あれは全部俺の作り話だったんだ。・・・いや、あの時は本気で信じてたけどな」
「ふぅん・・・」
花恩は俺の『世界』の成り立ちを、終始興味深そうに聞いてくれていた。だが、時折目が合うと、さっと目線を外されるのが気になった。
「・・・どうかしたのか?」
思い切って問うと、花恩は一層慌てて顔を背けた。そして、遠慮がちに俺を見上げつつ云った。
「ど、ドキドキ、するんです。先輩の顔、想像してた以上にカッコよくって・・・」
「え」
そういえば、思いがけず素顔を晒している事に気づいた。別に自覚など無いが、ここまで照れられると急に気恥ずかしくなる。
「み、見たいって云っただろ?・・・やっぱりマスクするか」
「それはダメです!」
「・・・じゃあ、慣れてくれ」
花恩は、頷くと真っ赤な顔で俺と視線を合わてきた。
恥ずかしそうに、けれども健気に俺を見つめ返すその姿はとても愛らしく、俺は、花の香に誘われる蟲の如くごく自然にその瞳に吸い寄せられていく。
「・・・!わ、だ、ダメですっ!」
だが、到達する事は叶わず、俺は左頬に思いがけず強烈な張り手を食らったのだった。
そして春。
一新した環境は俺に更なる変化をもたらし、ガンリキ達を通じて新たに「友人」と呼べる者が出来た。それも1人や2人ではない。今までの俺には考えられなかった事だ。
目的だったオカルト研究部では、持論の『世界観』を語ったところ予想以上に反響が大きく、入部早々にもかかわらず次号の部誌で特集を任される事になった。
俺は、『世界』に閉じこもる事を止めた。だが、それは決して棄てたという意味ではない。
棄てようかと思ったが、それを花恩の言葉が引き止めてくれたのだ。
“先輩は「作り話だ」と言ったけど、私はそうは思いません。
この世界は広くて、私達の存在なんてとてもちっぽけなものです。ましてや宇宙なんて、想像もできないくらい大きくて広いでしょう?それなら、宇宙のどこかに観測者がいるかも知れませんよ。私は、いると信じてます。
そういう話が本当かどうかは、私達には知りようがありません。笑い飛ばすのは簡単だけど、信じている方がワクワクして楽しくありませんか?
先輩には、いつまでも夢を追い求めて欲しいです。私は、先輩のそういう所に惹かれたから”
花柄の便箋に並ぶ、丁寧に書かれた丸文字。
携帯電話を持たない花恩とのやり取りは、主に手紙だ。時流に捉われない、純粋で健気な花恩らしいやり方だと思う。
この手紙は既に何度も読み返しているが、こうやって一人某高の屋上で花恩の手紙を読むのが、小さな楽しみになっている。
中学校では、なんと花壇係が復興したという。
きっかけは、一人のクラスメイトが花壇の世話を手伝ってくれた事だった。そこから徐々に花壇に興味を持つ人間が増え始め、教師が本格的に肩入れし始めたことで、正式に花壇の世話も生徒の役割として組み入れられる事になったという。
“私は、ずっと一人だと思ってました。でも、本当はそうじゃなかった。私を見てくれている人はちゃんといて、今はたくさんの友達に囲まれて毎日楽しくやっています。
この前、花壇が壊れてよかったと思ったなんて言ってしまって、本当にごめんなさい。あの時の私は、自分の事しか考える事が出来なかったんです。
今までもそうです。一人だと思っていたから、友達が出来なかった。この事に気づけたのも、先輩のお陰ですよ。
私にとってもあの花壇は、先輩と同じくらいとっても大切なものです。
この間、菖蒲を植えました。先輩はもう学校にはいないけど、お花を先輩だと思って大事に育てています。
今度会う時には、一緒に見に行きましょう。
その日を楽しみにしていますね。それでは”
花恩の手紙は、こう締めくくられていた。
俺は、それを再び丁寧に折りたたみ、制服のポケットに仕舞った。
生温い春の風を肌に感じ、空を見上げる。
高く、透き通った空だ。『世界』を抜け出して見れば、こんなにも空は蒼かったのだと改めて思う。
不意に、大海に一人投げ出されたような気分になる事もある。
けれども、きっと迷う事は無いだろう。
俺も、もう一人ではないから。
【終】
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