俺はきっと、何か大切なものを忘れている。
何となく、ずっとそんな得体の知れない喪失感を抱えながら生きてきた。
そう思うのは、ずっと俺の心の中に残っている、初恋の子の記憶のせいだ。
5つか6つくらいの時だっただろうか。俺には、好きな子がいた。
一緒に遊んでいるうちに好きになって、俺から告白したんだった。そして、その子は笑って俺を受け入れてくれた。
・・・でも、覚えているのはたったそれだけだった。その子とどうして離れてしまったのか、顔も名前も、どこに住んでいたのかも、何も覚えていない。
俺に残っているのは、その子と過ごした幸せな思い出と、今も変わらない気持ちだけ。
あまりにも希薄すぎて、本当にあった事だったのかすらあやふやになる。大切なのに、手を伸ばしてももう届く事はない、どこにもやり場のない思いを抱え、俺は今夜も眠りにつく。
今日から新しい生活が始まる。
・・・とは言っても、通う学校が中学校から、隣の高校になったというだけだけど。
ここ八江沢村は、山に囲まれた小さな田舎村だ。あるのは田んぼと山と畑と小さい商店くらいで、娯楽の類はバスで30分かけて隣の撫牛市まで行かないとない。
さらにそのバスも、数時間に1本しかないというど田舎っぷりだ。
そんな通学の不便さから、地元の大半の人間はそのまま八江高に行く。
そんなわけで当然、高校でのメンツもそうそう変わりばえなどしない。こんな辺鄙なところに外から来る奴なんて、他によっぽど行き場がなかった奴くらいだろう。
寒さの和らいだ風を受けながら、通い慣れた坂道を自転車で下る。
学校に近づくに連れて増えていく学生達も、校舎内ですれ違う奴らも、やはり見知った顔ばかりだ。
きっと、これから始まる高校生活も、今まで通り何もないんだろう・・・。
そんな事を考えながら、俺は新しい教室へと足を踏み入れた。
「るっしー!!おはおはーーー!!!!!」
入った瞬間、眼鏡の天パ男に飛びかかられた。
このスキンシップ過剰な男は・・・間垣祐介(まがきゆうすけ)。保育園からの腐れ縁だ。
とは言ってもこのクラスのほとんどの奴らがそうなんだけど。
ちなみに腐れ縁とは言っても俺は別に仲がいいとは思っていない。向こうが一方的に絡んでくるだけだ。
変なあだ名で呼ばれるのも、いい加減何とも思わなくなってきた。
「だぁーもう離れろよ間垣!近いっつの!」
俺が間垣の顔を押しのけると、間垣はむーっと口を尖らせた。
「相変わらずだなぁーるっしーは。花の高校デビューだってのにもちっと愛想良くできんの?ん?」
「デビューって・・・今更このメンツでデビューも何もねぇだろ・・・」
軽く教室内を見渡すが、やっぱり中学時代とほとんど変わらない顔ぶれがそこにはあった。
しかし間垣は、
「よく見ろよ!何人か知らない奴いるだろ!」
確かに言われて見れば、見ない顔が何人かいた。しかし、一目でヤバイ奴とわかるような不良と、なんかものすごい暗黒オーラを出してる女子くらいか。どっちも関わっちゃいけない臭いがプンプンする。
あとはほんとに知った奴ばっかり・・・と思った時、教室の真ん中あたりに、見慣れない人物が座っていた。
割と普通じゃない容姿の人間が多い中、黒髪で清潔感のある「至って普通」の風貌のそいつは悪目立ちしているように見えた。
知り合いでも探しているのか、きょろきょろと落ち着きなく辺りを見回している。そして、ふと目が合った。
その瞬間、俺の視線はそいつに釘付けになった。
吸い込まれそうに大きな丸い瞳。真っ白な肌。艶々した黒髪。
一瞬女かと思ったが、着ている制服で男子だと気づく。なのに妙に胸がざわついて、目を離す事ができなかった。そしてなぜか、向こうもじっと俺を見つめたまま、目を逸らそうとしない。
「おーい?るっしー??どしたの?」
突然視界が塞がる。気がつくと間垣が怪訝な顔で手をかざしていた。
「あ、いや・・・」
「ん?もしかして可愛い子でも見つけた?誰よ誰!」
相変わらず落ち着きない奴だ。間垣は俺の視線の先をちらりと追うと、ニンマリとした顔で距離を詰め、囁いてきた。
「あー、あいつね?なんかすげー可愛いよな。つかるっしー席隣じゃね?」
肩を組まれたまま黒板に貼られた座席表まで連れて行かれる。
確かに奴の座っている座席の左隣には、「相庭流紗(あいばるしや)」・・・俺の名前があった。
奴の名前は・・・「片桐黎夜(かたぎりれいや)」?・・・やっぱり知らない名前だ。ちなみに間垣は俺の2席後ろにいた。
「ほら!愛想良く!笑顔笑顔!」
間垣は俺のほっぺたを両手でグリグリと引っ張ってきた。
「余計なお世話だっ!」
反射的に手を払い除け、精一杯凄んでみせる。しかしまるで効いていないようで、間垣は相変わらずヘラヘラしていた。
どうもこいつは俺に突っ込まれるのを楽しんでいるようにも見える。
そのまま間垣と小突きあっているとチャイムが鳴り、教師が入ってきた。ぞろぞろと席に戻る生徒達。俺も少し緊張しながら席についた。
短いHRの後、入学式が行われる。メンツが変わらないせいか新鮮味も何もない、退屈な時間だった。
その後はようやく落ち着けると思いきや、またもやHRで新学期恒例の自己紹介。
もはや家はもちろん、家族構成や親の仕事まで知ってるような間柄で何を紹介することがあるんだろう。これまた無意味な時間だったが・・・。
「片桐黎夜です。出身は東京です。家庭の事情で、八江沢の母の実家で暮らすことになりました」
そいつが話し始めると、それまでヤジや冗談でガヤついていた教室が静まり返った。俺だけでなく、全員の視線が片桐に注がれている。
片桐はその雰囲気に圧されたのか、表情が強張っていた。喋りながらも、目線は泳いでいる。
俺も何だか落ち着かなくて、片桐をじっと見ていた。やけに目が合うような気がする。片桐のすがるような、不安そうな目を見ていると、逸らしてはいけないような気がした。
こうしてほとんど内容も耳に入らないまま、気づけば片桐の順番は終わっていて、教室内は再び騒がしくなり始めた。
そしてやがて俺の順番が来る。俺は仕方なく教壇に向かい、手短に自己紹介をした。
「相庭流紗です・・・」
不本意ながら俺は、周りから不良と思われているらしい。
それは大方、このやけに薄い髪と目の色のせいだろう。正真正銘生まれ持ったものなのだが、この通りの無愛想な性格と、たまに授業をサボる癖が相まって完全に不良のくくりに入れられている。
まぁサボりは確かに優等生のすることとは言えないし、俺がそうさせている感は否めないが、そう思われるのは肩身が狭い。
そんなわけで、俺にわざわざ絡んでくる人間は物好きの間垣くらいしかいない。そして今俺が喋っているこの瞬間も、楽しそうにしているのは間垣だけだった。
「よろしくお願いします・・・」
言い終えて席に戻ろうとした時。
片桐黎夜とふと目が合い、俺は動けなくなった。
片桐は、涙を流していた。
けれど、じっと俺を見つめるその目はどこか微笑んでいるようにも見える。
何で・・・泣いてんだよ?
心臓をギュッと締め付けられるような思いがした。
さっきも感じたが、まるで片桐と感情がリンクでもしているようだ。わけのわからない切なさと、妙な懐かしさのようなものがこみ上げてくる。
手が届きそうなのに届かない、もどかしさにも似た感覚。いったいこれは何だ?前にも感じたことがあるような・・・
「相庭〜?どうした。席に戻りなさい」
教師の声で我に返り、急いで席に戻る。右側から感じる視線から逃れるように、俺はただじっと机の上を見つめていた。