頬杖をついて、誰もいなくなった教壇をまだ眺めていた。
片桐の泣き顔を見たときの、あの感覚は何だったんだろう?懐かしいような、切ないような、遠い昔に忘れてしまった感情が呼び起こされるような感覚。
今日の俺は少し変かもしれない。突然現れた異分子に調子を狂わされたんだろうか?
少し外の風にでも当たりに行こうかと思ったが、ふとある事を思い出す。
・・・そういえば、今日は入学式とHRで終わりなんだった。
見れば、周りは騒がしく帰り支度を始めていた。
丁度いい。俺も帰ろうと鞄を手にしたその時。
「おーーーーっす!!!元気ぃ?!」
右の席から間垣の馬鹿でかい声が飛んできた。
早速片桐に絡みに来たようだ。何気なく見ると、片桐は遠慮なしに肩をバシバシ叩かれて、だいぶ戸惑っているみたいだ。
「俺、間垣祐介!なんかわかんないこととかあったら遠慮なく聞いちゃって!あ、こいつは相庭流紗ね!」
ついでみたいに、強引に肩を組まれて引っ張られる。
何勝手に人の紹介までしてんだこのおせっかい野郎、バランスを崩しかけながらも精一杯のきつい睨みをぶちかましてやるが、全く怯む様子もない。
「ルシヤ・・・くん?」
突然名前を呼ばれ、怯んだのは俺のほうだった。
零れ落ちそうなまん丸の瞳が俺を見上げている。
間近で見ると、本当に吸い込まれてしまいそうでどきりとする。全身に電撃が走ったような気がした。
「そーそー、ちょい無愛想だけど悪い奴じゃないから。ほらるっしー挨拶しなさい!」
ヘラヘラ笑いながら思いっきり後頭部を引っ叩かれる。思わぬ追撃に不覚にも足元がふらついた。
こいつ・・・後で絶対泣かす。
「ふふっ」
!?
こいつ、今笑った?
見れば、肩を小刻みに震わせてくすくす笑っている。
「よろしくね、間垣くん、ルシヤくん」
そう言って柔らかく微笑む片桐の顔に、さっきまでの涙の余韻はどこにもなかった。また俺の体に電撃が走る。
この笑顔はやばいだろう・・・意識してないんだとしたら悪質すぎる。
あの間垣でさえも声を出すことを忘れているようだ。俺達はしばらくの間呆然と、微笑む片桐に見入っていた。
・・・っていうか、何で俺だけ名前なんだ?
「お、おう、よろしくー!!」
「よ、よろしく」
2,3秒遅れの間垣の声につられ、何とか俺も返事をした。そして、そのまま何故か3人で一緒に帰る事になった。
「しかし何でまたこんなとこ来る羽目になったの?家庭の事情って?」
ストレートすぎる間垣の質問にどきりとする。
「おいっ、いきなりそういう事・・・」
「親の仕事の都合・・・でね。高校に通う間、こっちにいるおじいちゃんとおばあちゃんの家に預けられる事になったんだ」
しかし俺の動揺をよそに、片桐は何でもない風にけろりと言った。
「ふえー。ある意味災難だよなー黎夜も。なーんもなすぎて引くでしょ、ここ」
「ふふ、そんな事ないよ。小さい頃来た事あるし。あんまり変わってなくて安心したよ」
「え、そうなの?実は俺らどっかで会っちゃってたりする?」
コミュ力お化けな間垣は、いつの間にか片桐を自分のペースに引き込んでいる。俺はと言うと、二人の会話を黙って聞く事に徹していた。
俺はいつだってこうだ。2人だけなら仕方なく喋るが、3人以上となるとただの置き物と化す。会話のテンポについていくよりも、黙って相槌を打っているだけの方が圧倒的に楽だからだ。完全にコミュ障ってやつだろう。
間垣のコミュ力が羨ましいが、別に今更この性格を変えたいとは思わない。
そうしているうちに、あっという間に山道へと続く分かれ道に辿り着いた。町側に家がある間垣とはいつもここで別れる。
「俺こっち側だけど、黎夜は?」
「あ、僕こっちなんだ」
間垣の問いに、片桐は山側を指差した。俺の虚ろだった意識は一気にクリアになる。
俺も山側・・・つまりここからは片桐と二人・・・!?
「おうっじゃーな二人とも!また明日!!」
縋るような俺の視線に気づくはずもなく、間垣は自転車に跨ると風のように坂道をかけて行った。
・・・やばい。こんな状況になるとは思いもしていなかった。山側に家があるのなんて、俺の他に数人くらいなもんだからだ。
しばらく立ち尽くしていたが、「行こ?」と言う片桐の声でようやく体が動く。
「片桐は・・・チャリじゃないんだ?」
「うん。家、結構すぐだから」
「そ、そうなんだ。どの辺なの?」
「さぶしょーの裏の辺り」
俺はその言葉にものすごく救われた思いがした。
さぶしょーとは、この八江沢の山側最後にある店だ。
正式名称は、「コンビニエンスストア三郎商店」。コンビニとは名ばかりの、19時には閉まる至って普通の商店。片桐の言う通り、確かにここから歩いて5分もしないところにある。それくらいなら、俺でも何とか間を持たせそうだ。
「流紗くんは?」
「お、俺はずっと奥だよ。上早瀬・・・ってわかんねぇよな」
「ううん、わかるよ。結構山の方だよね」
片桐の言う通りだった。学校があるのが下早瀬、このあたりが早瀬、俺の家があるほぼ山の中が上早瀬。
さぶしょーを知ってるくらいだから、意外と土地勘はあるのかもしれないと思った。
「あの辺、池があってちょっと公園っぽくなってるところがあるでしょ。そこでよく遊んだんだよね」
「へぇ」
「池の上の方に、ちょっとした川っぽいところもあるよね。タニシとかいっぱいいる。あそこ、好きだったな」
「あぁ、そこ、もう水流れてないよ」
片桐は「そうなんだ・・・」と寂しそうに呟いた。
「俺もそこ好きだったけど・・・人もそうそう来なくなったし、まぁ仕方ねぇよな」
「じゃ、あそこは?あの、おっきな滑り台がある公園」
「あー・・・あるとは思うけど、だいぶ前に滑り台なくなったらしいし、ずーっと行ってないからよくわかんねぇ」
「昔、遊んだりしなかった?」
「どうかな・・・覚えてない」
俺が言うとそれっきり、片桐は黙ってしまった。
こんな小さな村だ、このご時世、何もかもが寂れる一方に決まっている。俺は真実を言ったまでだったが、なんかすごく悪いことをしてしまった気がして焦る。
無難な会話しかしてないはずなのに、なんでこんな空気になるんだ?俺のコミュ障ってそんなに重症だったのか?
「・・・ていうか、結構詳しいんだな。そんなにここに思い入れあった?」
とりあえず会話を途切れさせちゃいけない。この妙な空気を和ませたい。そう思って精一杯の笑顔で聞いてみたつもりだったが。
一瞬俺を見た片桐の表情に、俺はなぜか胸を抉られるような思いがして、思わず息を飲んだ。
あの時・・・泣きながら俺を見ていた時とは違う。悲しみに満ちた目をしていた。
何なんだよ。さっきから何で、そんな目で俺を見るんだよ・・・
訳がわからなくて、焦りを通り越してイラついてきた。村が寂れてんのは俺のせいじゃないってのに。
なのに片桐はというと、次に俺の方を向いた時にはもう笑っていて、
「うん・・・すごく・・・ね。」
それきりまた黙り込んだ片桐に、俺は今度こそ何も言えなくなってしまった。
幸いにもすぐにさぶしょーが見えてきて、俺たちは妙な気まずさを引きずったまま別れた。
どっと疲れが押し寄せる。
何も悪いことは言ってないつもりなのに・・・この罪悪感は何なんだろう。
コミュ障だから、知らないうちに傷つけるような事言っちまったんだろうか・・・
考えてももう、俺にはわかりようもない。
あわよくば聞こうと思っていた、あの涙の理由も。
ーーーーー
流石の俺でも、初日からサボりは気が引ける。何とか午前の授業を乗り切り、昼休みになった。
給食のない高校での昼飯は、各自好きな場所で取っていいことになっている。といっても、学食なんてしゃれたものはないので教室で食う生徒がほとんど。授業が終わると同時に何人かは購買にダッシュしていき、残りはそれぞれ机を動かして仲のいいグループ同士で弁当を食い始めたりしている。
「るっしー!昼どーする?」
後ろから暢気な声がかかった。・・・やっぱり間垣。
なんか今日はいつにも増してウザく感じる。
「どうするって、お前山田とかと食うんじゃねーの」
間垣は中学の時はいつも給食を食べ終えると、同じ野球部の何人かでどこか別の場所に行っていた。それなのに、昼まで俺に絡んでくるとは珍しい。
「ん、今日はるっしーと食いたい気分なの!黎夜も一緒にどっかで食おうぜ!ねぇ、どこで食うーー?」
片桐はこちらを向いて嬉しそうにしている。
昨日のあの変な気まずさは、幸いにも片桐は引きずってはいなかった。
それどころか、朝一で「おはよう」と笑顔で声をかけられたくらいだ。あの悲しそうな顔も、涙も、全部俺の見間違いだったんじゃないかと思うくらい、片桐は元気だった。
だからか俺も気が楽になったのはいいが・・・ちゃんと顔を合わせるとなると、まだ少し緊張する。
俺はというと、中学時代の昼休みは一人屋上で過ごすことが多かった。
屋上は本来立ち入り禁止だけど、数年前の生徒が鍵を壊したらしく今は常に開放状態になっている。
そこから見えていたから、この高校にも屋上がある事はわかっていた。そして、一見入り口も封鎖されているように見えて、実はちゃんと入れる事も休み時間のうちに調査済みだった。
俺にとって、一人になれる場所ってのは重要だ。これからの高校生活の拠点になるからな。
せっかく見つけたそんな場所は、出来るなら誰にも教えたくはない。
「・・・どこでもいいんじゃね」
「えー、なんだよそれぇー。るっしーどっかいいとこ見つけたんっしょ?休み時間ちょいちょいいなくなってたし!なぁなぁ~!!」
駄々っ子みたく足をばたつかせる間垣。
何なんだこいつ。でかい図体に似合わないガキくさい動作に思わず噴出しそうになるが、何とか堪えて溜息をついてやった。
「僕も気になるな」
それを見ていた片桐まで入ってきた。
やっぱりこいつは苦手だ・・・。
いつもにこにこ笑っていて、感じのいい奴だとは思うが。
黒く澄んだ瞳でまっすぐ見つめられると、何だか変な気分になる。男のくせに顔が可愛いってのもあるんだろうけど、そういう意識の仕方とは少し違う気がする。何かもっと感情の深い部分が揺さぶられる、とでも言うんだろうか。うまく表現できないが、とにかくこいつに見つめられると落ち着かない。
「な、気になるよなぁ!るっしー中学ん時からいっつもいつの間にか消えてるし、何処にもいねーんだもん」
「そうなんだ?どこか秘密の隠れ家があるのかな」
「あるある!絶対あるね、それも何個も!るっしーさぁ、授業さぼりまくるくせに学校にはちゃんと来てんだよね。きっと巣作りに必死なんだよ!いずれはこの学校を征服・・・」
「ア ホ か ! ! !」
適当に調子のいいことを言って何でも自分のペースに持って行くのは間垣の特技だが、何だか最近さらに磨きをかけてきたような気がする。それとも俺にヤキが回っただけなのか?
これ以上片桐に変なことを吹き込まれても困るし、もうここは折れてやるしかない。
「わかったよ・・・。その代わり、誰にも言うなよ?」
「よっしゃー!!るっしーの巣ぅ!」
「巣~!」
「おめーら巣とかゆーーな!!」
こうして、俺達3人は3階に向かって歩き出した。