誰よりも先に目が覚めてしまった翔吾は、一人ベランダで黄昏ていた。
カラカラカラ。
程なくして誰かが入ってくる気配に振り向くと、少し寝ぼけ眼の黎夜が立っていた。
丁度思考の中心にいた人物が現れたことに驚いたが、平静を装って言った。
「黎夜?起こしてしまったか?」
「ううん。たまたま目が覚めただけ。それで、翔吾くんがいなかったから・・・」
「あぁ、雑魚寝なんて初めてだったからね。体が痛くて」
苦笑いしてみせると、黎夜もつられて微笑んだ。そして静かに隣に移動してくる。
同じように手すりに凭れかかかりながらもちらちらと視線を注いでいるのを、翔吾は見逃してはいなかった。
「・・・どうした?」
「あ、・・・へへ、翔吾くん、髪下ろすと雰囲気変わるなぁと思って」
言われて、思わず頭に手をやった。いつもは前髪以外を後ろに流し完璧にセットしているが、今は寝起きのままで毛先があちこちに跳ねていた。
唯一のコンプレックスをぐしゃぐしゃと掻き乱す。
髪の癖まで一緒とは、どこまでも皮肉なものだと思った。
「誰かに見られると思わなかったからな。・・・整えてくる」
「あ、待って。・・・その方が似合ってるよ」
室内に戻ろうとしたが、そう言われて足を止める。
「・・・ねぇ。流紗くんまだまだ起きそうにないし、散歩にでも行かない?」
黎夜の問いかけに、翔吾は僅かに考えてから頷いた。
川沿いの土手を二人で歩く。
周りの風景をじっくり見ながら歩くなんていつぶりだろう。
目がチカチカするような派手な色と喧騒が溢れる都会に比べ、ここは別世界だ。人工的な色も音も極端に少なく、何もない。だけど空虚ではなく、何か目に見えない大きく優しいもので包み込まれた世界。そんなファンタジックな錯覚すら覚えた。
澄んだ空気、足元に広がる緑、遠くに聞こえる水の音。どうやっても体のどこからか入ってくるそれらは擦り切れた細胞に心地よく染み渡ってくる。翔吾は体中の感覚を研ぎ澄まし、それを堪能した。
もしもここで生まれていたら、何かが変わっていただろうか・・・。
そんな無意味な仮想が頭を過ぎるが、すぐに打ち消した。
「もう少し行くと下に降りれるんだよ」
土手からその下の川の淵にかけてはずっと草が生い茂っていたが、少し先は川原が整備されてちょっとした公園のようになっていた。
誰もいない公園へ降りると、川へと続く石段に二人は腰掛けた。
「あのさ・・・翔吾くん・・・」
「・・・ん?」
おもむろに黎夜が口を開いた。
「昨日、大江戸屋での事・・・、ごめんね・・・」
頭に瞬時に昨日の出来事が蘇る。
大江戸屋で流紗が失踪した事で、自分は黎夜に責められたのだった。
『流紗くんに何か言ったんでしょ!?何で余計な事するんだよ!!何もしないって約束したじゃないかっ!!!!』
あんな風に黎夜に敵意を向けられたのは初めてだった。
「いや、いいんだ。・・・お前に非難されるような事をしたのは事実だしね」
「ゲニーズ(ファミレス)での事?・・・やっぱり、あの時何かあったんだ」
「あぁ・・・、でも心配しないでくれ。約束通り、お前と流紗君の関係を悪化させるような事はしていないから」
「それはわかってるよ、・・・だからひどい事言っちゃったと思って」
そう言うと黎夜は俯いた。翔吾は敢えて言葉をかけずに、朝日を反射する川面を眺めていた。
黎夜と出会い、今まで共に過ごしてきた記憶が蘇ってくる。
こうやって二人で話すのは、これが最後になる。そう思うと、なかなか言葉を切り出す事が出来なかった。友達・・・いや親友として、最後に伝えなければならない事があるのに。
止まってはくれない水の流れが憎らしかった。
「流紗君がお前を振ったのは、本心じゃなかったと思うよ」
「えっ?」
突然話を切り出されて黎夜は上ずった声を上げた。翔吾は構わず続ける。
「どうしても納得いかなくて、彼を直接問いただしたんだ。・・・はっきりとは言わなかったが、昔の黎夜との約束は覚えているみたいだった。けど、彼にとってそれは幼心のほんの口約束みたいなものだったらしい。・・・今まで覚えていないフリをしていたのは、お前を傷つけまいとしての事だろう」
「ほっ・・・ほんと?流紗くん、覚えてるんだ?」
「あぁ、多分。・・・僕の口から話すことじゃなかったな、すまない」
黎夜はぷるぷると首を振った。その表情は喜んでいるのか悲しんでいるのかよく読み取れない、複雑で苦しげなものだった。残酷な事を言ってしまったのかと、翔吾の胸は一瞬痛んだ。
「彼の気持ちはお前と一緒だ。ゲニーズで話していて確信したよ。・・・ただ、軽い気持ちでしてしまった約束が現実味を帯びてきて、それが彼を臆病にしていたのかもな。昔のまま変わらないお前を受け入れるだけの度量がないから、自分の気持ちを押し殺して認めないようにしている。・・・僕にはそう見えた。」
川の水音に混じって鼻をすする音が聞こえ始めた。
・・・泣かせる事になるか。
僅かな罪悪感が沸いたが、流すのは悲しみの涙ではないはずだ、そう自分を擁護して黎夜の方に向き直った。
「・・・黎夜、もう我慢しなくていい。近い内に、流紗君はきっとお前を迎えに来る。・・・もう大丈夫だ」
「し、しょーご、っ・・・くん・・・っ」
息を詰まらせながら泣く黎夜の頭をぽんぽんと擦った。
「あ、ありがと・・・っ、ひっく、翔吾くん、僕の為に・・・、なのに、僕は・・・」
「それはもういいって」
優しく黎夜の頭を撫でながらも、翔吾の胸の内は複雑だった。
-本当は、流紗の気持ちが変わっている事を望んでいた。
そうすれば、自分は親友という肩書きの偽者から、本物の恋人へ昇格できたのだ。
(自分の幸せの為に黎夜の不幸を望んでいたなんて、親友ですらないじゃないか)
思わず自嘲の笑いが突いて出た。
もと来た土手を並んで歩く。日は少し高くなり、爽やかな空気は着実に熱と湿気を増し始めていた。
「・・・朝の便で戻るよ」
唐突な翔吾の言葉に、黎夜の足が止まった。
「え・・・もう、帰っちゃうの?」
「僕の役目は終わったからね。これ以上の長居は二人の邪魔にしかならないさ」
-そう、偽者である自分はもう黎夜には必要ない。
敢えて軽い調子で言ったのだが、黎夜が後をついて来る気配はない。
「そんな・・・、そんな言い方しないでよ」
か細いがはっきりとそう聞こえて、翔吾は振り返った。
「正直言うと・・・、一時期翔吾くんに流紗くんを重ねてたよ。でも、一緒に過ごすうちに、わかったんだ。翔吾くんは流紗くんじゃないし、逆もそうだって。・・・どんなに顔が似てたって、代わりには出来ない」
自分の思いを見透かされていたような黎夜の告白を、翔吾は黙って聞いた。そして一つ一つ確かめるように反芻していく。
「昨日3人で一緒に過ごして、すごく楽しかった。ずっとこうやって笑っていたいって、この関係が続けばいいって思った。・・・欲張りかもしれないけど、一人だけ選ぶなんてしたくないよ。流紗くんも翔吾くんも、どっちも僕には大事な人だから」
翔吾をまっすぐ見つめ、訴えかけるように強く言い切った。
しばしお互い無言で見合っていたが、翔吾が耐え切れず吹き出す。
「・・・流紗君が聞いたら怒るぞ」
「ふふ。・・・でも、本当の事だもん」
照れたように笑うと、黎夜は翔吾に歩み寄った。
「だけど、やっぱり帰るよ。・・・別れが辛くなる」
家に着き玄関のドアを開けたところで、翔吾が言った。
今度は黎夜も止めることはしなかった。
【おわり】