「はぁ。」
俺は今日何度目かわからないため息をついた。我慢できなくなったのか、隣で携帯を弄っていた美貴が鋭く睨みつけてくる。
「何なの?さっきから」
「はぁ。」
「うるさいんだけど」
「・・・はぁ。」
なんかもう、ほっといてほしい。一人にして欲しい。俺は夕日を受けてきらめく川面を眺めながら、またため息をついた。
「いい加減引きずりすぎじゃない?ほんっと、女々しい」
「ほっといてくれよ・・・つか、帰れよ」
わかってる。いい加減吹っ切らなきゃいけないのは。でも、頭ではけじめはついていても、なかなか心までは言うことを聞いてくれないもんだ。
仲間といるときは少しだけ忘れられる。でも、一人になったときにドカーンと、なんか来ちゃうんだよなぁ。
美貴が立ち上がる気配があった。目線だけ上げて隣を見てみると、美貴はムッとした表情で俺を見下ろしていた。
「馬鹿」
「・・・」
黙っていたら、いきなりボコッという乾いた音とともに頭頂部に衝撃が走った。
「いって!!!」
頭を抱えながら振り向くと、美貴の手には空のペットボトルがあった。
「何すんだよ!」
「いつまでもウジウジしてんじゃねぇよ!男のくせに!チンコ腐ってんじゃねーの!?」
「うるせーよ!健在だよ!てかマジほっとけ!イラつくんなら帰りゃいいじゃんかよ!」
俺がそう吐き捨てると、美貴はこれ見よがしなため息をつき土手を登っていってしまった。
・・・俺は一人になった。
・・・なんだよ。何しに来たんだよ。慰めてくれんのかと思ったのに仕舞いにゃ殴るとかどういうことだよ。
・・・はぁ。
明日から夏休み。なのになんなんだこの気分。なーんにもやる気が起きない。
ここから一歩も動きたくない。誰も、何も悪くないんだけれど、何かを呪わずにはいられない。しいて呪うなら俺の運・・・かなぁ。
日が沈みかけ、風がちょっとだけ冷たくなってきた。マイナス思考に拍車がかかり、なんだかどんどん絶望的な気分になってきて、いつのまにか俺は泣いていた。
あぁ、我ながら情けない。でも誰もいないし、誰も見てないし別にいいや。
不意にケツに振動を感じた。・・・携帯のバイブか。
開いてみると、母親からのメールがあった。
『力帰ってこないからご飯に行きます。タマゴあるから適当に食べて』
・・・なんだよ。オカンまで追い討ちかよ・・・。ってそういえば夕べ、明日の夜は外食だから早く帰って来いとか言われたっけ。
夕飯は一人寂しく卵かけご飯かと思うと余計泣けてきた。いや別に卵かけご飯に罪はないんだけど。
携帯を閉じようとすると、辺りが暗くなっていることに今更ながら気がついた。対岸の土手にぽつぽつと明かりが灯り、完全に夜の景色に変わっていた。
涙は既に乾き、目を動かすと引きつった感じがする。それに、瞼にすごい違和感がある。どうやら腫れてるっぽい。失恋して目腫れるだけ泣くとか、さすがにちょい引くわなぁ・・・と心の中で自嘲してみた。
暗くなってもやっぱり動く気になれず、惰性でうずくまっていると、誰かが近づいてくる気配がしてきた。
・・・やばい、お巡りかな?ちょっと焦ったが、足音が近づいてくるにれ、何かものすごく食欲をそそる匂いもしてきた。
「まだいたの?」
不意に上から降ってきた・・・その声は、さっき俺をぶん殴った女王様のものだった。
「な、何だよ・・・お前こそ」
振り向くと土手の街灯の光が目に飛び込んできて、俺は思わず顔をしかめた。美貴の顔は逆光になっていて良く見えない。だが、
「ぶははっ!だっさー、めっちゃ目腫れてるし」
俺の顔は向こうからは丸見えだったらしい。俺は一気に恥ずかしくなって再びダンゴムシのように丸まったまま、精一杯の虚勢を張った。
「う、うるへぇ!こっち見んな!!」
美貴はまるで気にも留めず、ケラケラと笑いながら土手を降りてきた。そして、俺の傍まで来たかと思うと、いきなりうなじに冷や水をかけられたような衝撃が走った。
「ひゃうっ!!」
俺はあまりの冷たさに飛び上がった。反動でうなじに貼り付いていたものがボトリと落ちた。
「ななな何なんやさっきからぁ!」
涙目で叫ぶと、美貴は笑いを押し殺したような声で言った。
「冷やせば?ひっどい顔よ」
そろそろと落ちたものを拾い上げてみると、それは猫柄のハンカチに包まれた保冷剤だった。
「・・・お、おう。何だよ気が利くじゃんか」
けどもうちょっと普通に渡せよ・・・と心の中で愚痴りながらもそれを瞼に当てる。火照った肌にひんやりして気持ちいい。冷たさに身を任せぼーっとしていると、ふと、妙な既視感めいたものが沸き起こってきた。前にもこういうことが・・・。
記憶を巡らせてみると、空き教室の隅っこで泣いている女の子の姿が浮かんでくる。
そうだ、中学2年の卒業式の日。式も終わり、もう人気も少なくなった学校で、今までに見たことがないくらい美貴は泣いていた。理由は、多分今の俺と同じようなものだったと思う。その姿があまりにも痛々しくて、俺は必死に慰めようとして・・・とっさに思い立って、保健室から保冷剤を取ってきて渡したんだった。
美貴はさっきと同じように俺の隣に腰を下ろし、持っていた紙袋をガサゴソとまさぐり始めた。
なんだか、理由はよくわからないけど少しだけホッとした。やっぱ一人は寂しい。
が、ほのかに立ち込めていた匂いが急に濃厚なものになる。これは・・・マックスドナルドのチーズ照り焼きチキンバーガー!?大好物を意識したとたん、腹がギュゥーっと情けない叫びを上げた。
保冷剤の隙間からチラッと覗き見ると、やっぱり女王様はバーガーをもくもくと食らっていた。俺の視線に気づくと、紙袋を差し出し、
「食べる?」
「よろしいのですか?」
「買いすぎたから。でもちょっとだけね」
お許しが出ると俺は袋に飛びついた。買いすぎたって・・・どう見てもバーガーもポテトもきっちり二人分あるじゃねーか。
「ちょっとは生き返った?」
「・・・まぁ。」
腹が膨れたおかげか。だいぶ気持ちが軽くなった気がする。俺は草むらに寝そべり、保冷剤の乗っかった瞼を閉じた。
「なぁ。何でさっき殴ったの?結構凹んだんだけど」
「ムカついたから」
ひどい。想像はついてたけどやっぱりひどい。
「人には偉そうに男なんてあいつだけじゃない、とか何とかぺらぺら説いてたくせに、いざ自分が失恋したらグズグズに沈んでんだもん。あたしに言ったことは全部適当だったっての?って」
「・・・?何の話ですか?」
「ぜーんぶあんたに返すわよ。ほら、あの空の星見てみなよ。この地球にはあの星と同じくらいの人間がいて、あんたもあの子もそのひとつに過ぎないのよ?考えてみればそのひとつが駄目だったくらい、ちっぽけな事で」
「ちょちょちょやめて!・・・俺そんな事言ったっけ?」
俺は恥ずかしさのあまり飛び起きた。
「言った。あんときは星じゃなくて雪だったけど」
「・・・よく覚えてんなぁ。まったく記憶にないんだけど」
「ふん。やっぱ適当に言ってたんじゃん」
「いやいやいや。必死だったんですって」
そう。あの時はとにかく、何とか美貴を泣き止まさなきゃと思って必死だったんだ。でも全然泣き止んでくれなくて、その内まるで自分が泣かしてるみたいに思えてきて、軽くパニックに陥っていた。
「まぁ・・・あたしも必死だったのよ。殴ったのは悪かったけど、そこは分かってよね」
「うん。・・・ありがとな」
再び寝そべり、そう声をかけると、美貴はぷいっとそっぽを向いた。
横を向いたその髪についている飾りに、ふと目が留まる。
「お前、それ何気にずーっと付けてるよな」
何気なく指摘すると、美貴はほんの一瞬ぽかんとしたが、すぐに察して両手で頭を抑えた。
それ・・・美貴がつけている髪留めは、中学の修学旅行の時に俺が買ってやったものだ。名前は忘れたが特殊な石細工で作られたキツネ(美貴は猫だと思ってたらしい)は中学生の髪留めにしては値が張るものだったが、名残惜しそうにそれを見ている美貴を見て、なぜかその場のテンションに任せ俺はそれを買ってしまったのだ。・・・後でちょっと後悔した事は内緒だが。
「き、気に入ってんのよ。なんか文句ある!?」
あぁ、もしかして。俺の気のせいじゃなければ、やっぱり。
キツネの髪留めと美貴の反応を見て、俺は気づいてしまった。その瞬間、今まで見えていなかったもう一つの世界が開けたような気さえした。
何で今まで気づかなかったのか・・・思えば思い当たるフシはいくつかあったのに。
美貴は・・・俺の事が・・・
「・・・」
自分でも衝撃的で、思考がうまく定まらない。いやもちろん気のせいかもしれないけど・・・。
俺が言葉を発せないでいると、美貴はあからさまに焦っているようだった。街灯の光の加減で表情までははっきりと見えないが、なんとなくそんな空気がする。俺の予想はますます確信へと変わっていった。
突然、美貴は手のひらを差し出してきた。
一瞬意味を取りあぐねたが・・・女の子に恥をかかすわけにはいかないと、俺も手を伸ばす。
「650円」
「・・・は?」
触れる寸前でそう言われた。
「チーズ照り焼きチキンバーガーセット代。保冷剤は負けたげる」
「・・・金とるんすかぃ!?」
「当然でしょ。」
・・・えぇーーーー。
そりゃないですよ女王様・・・。
しぶしぶケツポケットをまさぐると、
「まぁ、明日でいいけど」
「明日?」
明日から夏休みだ。わざわざ家まで持ってこいってか!?
「明日、志田達がガンリキを偲ぶ会やろうって。・・・皆あんたに気つかってたのよ?感謝しなさいよね」
「そ、そりゃありがたいけど。・・・偲ぶって使い方おかしくね!?」
美貴は答えずすっくと立ち上がった。
「明日、12時に駅前。来なさいよ!」
そう言い置くと、振り返りもせずサクサクと土手を登っていった。さっきより幾分足早に。
その後ろ姿を、幼馴染ではなく、一人の女の子として、俺はそのとき初めて意識したのだった。
【終】
あとがき→
閉じる